« 千葉の水道の放射性ヨウ素と川崎の放射線量 | トップページ | 京浜東北線:桜が満開の季節 »

2011.04.03

東日本大震災:東北に生きていた津波への備え

今回の東日本大震災での津波被害、それはもう甚大なものでしたが、
そんな中で先見の明ある行動で助かっている命もありました。
死者行方不明者が多すぎますが、それでもこういう見識と知恵がなければもっと多くの命が失われていたことでしょう。
東北の太平洋側では『てんでんこ』(てんでばらばらの「てんで」)と言い伝えがある地域があったように
決して皆が油断していたわけでなかったし明治や昭和初期の津波被害を教訓にしていた。
「そんあことがあるわけない」と言われながらも、日頃からの津波対策を考えている人たちはやはり居て、
それが今回助けになっていたのは良かったと思います。

http://nihonch.blog.fc2.com/blog-entry-160.html
【生きる】市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校 岩手・大船渡
1: 帰社倶楽部φ ★ :2011/03/29(火) 17:41:09.63
岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。
海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
[朝日新聞]2011年3月29日17時6分
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290249.html
2chURL:http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1301388069/

http://jishin.ldblog.jp/archives/51665212.html
【東日本大震災】 此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救うカテゴリニュース速報+ 1 :影の軍団ρ ★2011/03/30(水) 08:45:23.45
「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、
重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。
1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、
坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」
本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。
結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、
生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。
昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。
その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、
曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。
巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。
地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。
先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm?from=main7

http://labs.digitalhell.net/2ch/dat/20110331/newsplus/1301529323.html
【東日本大震災】「津波なんてここまで来るわけがない」そう言われながら10年かけ作った岩山の手作り避難所、70人の命救う 東松島★2
1 環境破壊ちゃんφ ★ 2011-03-31 08:55:23 ID:???0
「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。
700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。
東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に
「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。
平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。
「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。
津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」
という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。
避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。
避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、
先見の明があった」と感謝する。
一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。
asahi.com  http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290226.html


■津波というより高潮(海面上昇)

大波がどばーっとかぶさってくるというアニメ絵的なものでなく、海面そのものが上昇する状態。
これでは堤防や防波堤は無力で海面より下は水没、平野だとそれ一面が水没してしまう。


■こちらも読んでいただきたい・過去ログ
2007年 緊急地震速報・新たな稲むらの火『ナウキャスト地震計』
  2011.3の地震多発で「当確3割」とされたTVや携帯メールの地震速報、よく頑張っていると思います
2005年 地震と津波と稲むらの火
  地球の地震の10%は日本で起きている/有名な稲むらの逸話
1999年 NHKクローズアップ現代 高潮が町を飲み込んだ
  熊本不知火高潮災害、唯一事前避難勧告できた龍ヶ岳町

|

« 千葉の水道の放射性ヨウ素と川崎の放射線量 | トップページ | 京浜東北線:桜が満開の季節 »

ことば・文字」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/3180/51293090

この記事へのトラックバック一覧です: 東日本大震災:東北に生きていた津波への備え:

« 千葉の水道の放射性ヨウ素と川崎の放射線量 | トップページ | 京浜東北線:桜が満開の季節 »